眉スウ 許穆 (1595~1682)

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眉叟・許穆 (1595~1682)

眉叟・許穆
朝鮮後期の文臣で、三陟府使として官職にあった 時、牧民官として名高かった。京畿道漣川出身で、号は眉叟、本貫は陽川である。
1624年(仁祖2年)、光州牛川に暮しながら読書と書に専念して独自の篆書を完成させ、東方の第一人者という評価を受けている。彼は一生科挙を受けず草野に隠れ暮していたが、56歳の時初めて参奉に薦挙され、81歳になって左議政に昇格した。このように科挙に合格しないで左議政の地位に就いたことは前例がない。
1657年(孝宗8年)の工曹佐郞と持平を経て、1659年に掌令となり、宋時烈などの北伐政策に愼重を期することを上訴し、1660年(顕宗1年)に孝宗が 逝去すると、孝宗に対する趙大妃の服喪期間の問題で宋時烈と論争し、政界に大きな波紋が広がった。それにより顕宗は彼を三陟に左遷した。
1660年10月から2年間、三陟府使として在職しながら郷約を作って住民教化に力をつくし、『陟州誌』を編纂する一方、三陟の邑内が東海に近かったため潮水が入って住民が大きな被害を受けると、唐の韓愈の古事に基づいて「退潮碑」を立てて鎮めた。陟州東海碑とも呼ばれるこの碑は、篆書体の独特の筆遣いで有名である。文集には『眉叟記言』がある。