現在地域 | 9州5小京 | 12牧 | 備考 |
---|---|---|---|
江原道 | 朔州 | - | 消滅(春川) |
溟洲 | - | 消滅(江陵) | |
北原京 | - | 消滅(原州) | |
江原道 | 漢州 | 広州 | 新設 |
- | 楊州 | ||
黄海道 | - | 黄州 | 新設 |
- | 海州 | ||
忠清道 | 中原京 | 忠州 | - |
西原京 | 清州 | ||
熊州 | 公州 | ||
全羅道 | 全州 | 全州 | 新設 消滅(光州) 新設 消滅(南原) |
- | 羅州 | ||
武州 | - | ||
- | 昇州 | ||
南原京 | - | ||
慶尚道 | 慶尚道 | 晋州 | 消滅(山) 消滅(金海) |
尚州 | 尚州 | ||
尚州 | - | ||
金官京 | - |
〈表1〉のように全国が十二牧に編成されていたが、南道地域では従来の拠点地域がそのまま維持されるか、消滅した場合には新しい州牧を設置し、黄海道地域には新しい拠点州牧を新設した。しかし、西北界地域である平安道地域及び江原道の東北界地域では朔州・溟州・北原京が消滅したが、これに関する 変動内容は具体的に記録されていない。
このように全国を十二牧に編成して統治した成宗2年(983)の地方行政制度の改編は、主に南道地域に該当する改編であり、軍政地域である東北界地域の江原道地域と、西北界地域の平安道地域とは関係のない改編だった。すなわち、北方辺境の契丹の侵入に備えるために西北界の榮州には安北大都護府使が、順州、威州、殷州、肅州、慈州には防禦使が派遣され、東北界の溟州は河西府に改編された。
これとともに全国の行政区域を10道に分ける改編の断行により設置された10道は、関内道、中原道、河南道、江南道、海陽道、嶺東道、嶺南道、山南道、朔方道、西道で、128州449県7津が属していた。このうち、7州62県を管轄した朔方道が、おおよそ現在の江原道に当たる。
こうした10道制の実施にもかかわらず、地方行政の中心はあくまでも州郡の外官たちであった。全国を地理的に10道に区切った意図は、建国初期から伝運使が派遣された漠然として臨時的であったいくつもの道を固定的な区域にするためであったが、10道が設置された後も、中心になったのは十二節度使をはじめとする外官であり、10道が州郡を管轄する上級行政機関として機能することはなかった。
したがって、10道は中央と州郡の間の中間的な行政区域ではなく、租賦を運ぶ面と巡察区画としての機能のみを持っていたのである。すなわち、10道制は従来の12牧体制の州を中心とする体制から、州を含む広域の地方制度への転換であり、高麗の集権体制が整備強化されたとはいえ、地方行政制度としての道制としては定着することはできなかった。
成宗14年(995)に改編された外官の節度使体制は、穆宗8年(1005)に至って南道には12節度使4都護府のみを、東・西北界には防禦陣使、県令、鎮将のみを残すなど、全国の観察使、都團練使、團錬使、刺史を廃止することで、節度使体制は徐 々に民政的な体制へと変化するようになった。また、顯宗3年(1012)には東京留守を廃止して慶州防禦使を設置するとともに、12州の節度使を廃止して5都護府と75都按撫使を置いた。また、顯宗9年(1018)には按撫使を廃止し、4都護府8牧56知州郡事28鎮将20県令に改編された。これによって軍事的な節度使体制は南道の民政的な牧、知州副郡事、県令体制に転換され、辺境地域には防禦使、鎮将だけが設置された。
このような顯宗9年の外官制改変により、全国に派遣された外官の数は成宗14年の80人から116人に増加し、これによって集権的支配体制が強化されるなど高麗の外官制の基礎がこの時期に確立された。その後、高麗の地方行政制度は顯宗年間に全国を京畿と5道両界に区分して、その中に4京4都護府8牧を設置し、その下に15部129郡335県29津を設置するなど大々的な地方行政体制に改編された。この時の5道は民政体制である楊広道、慶尚道、全羅道、交州道、西海道であり、両界は軍政 体制である東界と北界だった。
江原道地域は概して太白山脈の東側である嶺東地方の大部分の地域と、咸鏡南道・定平の南の地域が東界に含まれ、楊広道に含まれていた嶺西南部地域の一部を除いた嶺西地方の大部分が交州道に含まれた。江原道の大部分が含まれた東界と交州道の行政組職をみると、東界は1都護府9郡8県10津の州県と17属県で、交州道は3郡の州県と25属県など1都護府12郡8県10津の州県と39属県で構成されていた。5道両界には高麗中期から地方長官である5道の按擦使と両界の兵馬使が派遣されて管轄郡県を統治することで、民政的な5道と軍事的な両界の二元体制は高麗王朝末期まで変わらずに続いた 。